2024年04月19日 1818号

【シネマ観客席/オッペンハイマー OPPENHEIMER/監督 クリストファー・ノーラン 2023年 米国 180分/「被害者の不可視化」を脱せず】

 「原爆被害を軽視している」「いや、科学技術の暴走に警鐘を鳴らした作品だ」――公開中の映画『オッペンハイマー』をめぐり、様々な感想がとびかっている。「原爆の父」と言われる理論物理学者を主人公にした本作は「核」をどう描いたのだろうか。

原爆肯定ではないが

 『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督)は昨年7月の公開以来、世界興業収入が10億ドルに迫る大ヒットを記録。主要映画賞を総なめにするなど、内容的にも高い評価を得ている。ところが日本での公開は長らく未定となっていた。「反日映画だ」という一部ネットの反応に、配給会社が及び腰になっていたからであろう。

 結論から言うと、本作はオッペンハイマーを「戦争を終わらせた英雄」として持ち上げてはいない。彼が責任者となり原子爆弾を開発・製造した「マンハッタン計画」をNHKの『プロジェクトX』風に称賛する映画ではないのだ。

 劇中のオッペンハイマーは己の理論を過信し、他者への想像力を欠いた人物に描かれている。原爆開発に携わる大義名分は「ナチスには使わせない」ことだったが(オッペンハイマーはユダヤ系移民)、本当の動機は科学者としての好奇心と功名心であろう。実際、彼はドイツ降伏後も、日本に原爆を使用することを強く主張している。

 だが、核兵器の破壊力を目の当たりにした彼は、世界を焼き尽くす業火の幻影に苦しめられる。「自分の手は血塗られている」。戦後、水爆開発の中止を米国政府に進言するが、「ソ連のスパイ」と疑われ公職から追放されてしまう。

 そんなオッペンハイマーを本作はギリシャ神話の神、プロメテウスになぞらえている。プロメテウスは天界から火を盗み人間に授けた。恩恵を与えたつもりだったが、人間は火を使って武器を作り戦争を始める。その罰を受け、プロメテウスは生きたまま永遠の苦しみを味わうことになった―というわけだ。

加害者の苦悩のみ

 米国では原爆投下を正当化する神話が今もまかり通っている。「戦争終結に導き、多数の命を救った」というように。先日も、共和党の下院議員がイスラエルのガザ侵攻に関連し「長崎と広島のようにすべきだ。早く終わらせろ」と核兵器使用を促す発言をした。

 一方で、「原爆投下は間違いだった」とする意見が若い世代を中心に増えているのも事実である。こうした世論の変化や、核兵器使用に対する現実的な危機感(ロシアのプーチン大統領による一連の発言)が、本作への高い評価につながっているのだろう。

 しかし、「被爆者の後遺症の報告にショックを受け、核開発に反対するという物語」(映画評論家の町山智浩)といった評価には同意できない。本作は加害者となったオッペンハイマーの苦悩やトラウマだけに焦点をあてている。「被害者の不可視化」という枠組みから脱していないのだ。

 広島県出身の被爆2世で、『なぜ原爆が悪ではないのか―アメリカの核意識』などの著書がある宮本ゆき・デポール大学教授は次のような懸念を語る。「広島、長崎、そしてアメリカ国内にもいる被ばく者がヒューマナイズされる(人間性を与えられる)ことがないまま、加害者側の人間だけが『実はこんな苦悩があったんだ。罪の意識に苛まれていたんだ』とヒューマナイズされてしまって良いのでしょうか」と。

現実の惨状を描かず

 映画には原爆被害の直接的な描写は出てこない。科学者たちが被爆地の記録映像を見るシーンはあるが、何を見たかは映さないのだ。ノーラン監督は「本作はあくまでもオッペンハイマーの主観に寄り添う一人称的なものなので、彼が見ていない広島と長崎の惨状は描かない」と説明する。

 原爆の惨禍は、彼が「成功演説」を行っている際に見た幻覚で表現される。閃光が会場を包み、聴衆の顔の皮膚がめくれ上がる…。この聴衆はノーラン監督の実の娘が演じている。「もし究極に破壊的な力を創り出したなら、それは自分自身の近くにいる大切な存在をも破壊してしまう」ことを示す意図らしい。

 だが、余程の映画通でなければそんなことは分らない(評者も海外の映画サイトで知った)。そもそも顔の皮膚がうっすら剥がれるなんて、原爆被害の表現として甘すぎる。いかに言い訳しようが、米国の観客を不愉快にしないための「配慮」としか思えない。

 本作は、将来地球を滅ぼしかねない「核の恐怖」は描いても、現実の核被害および被害者の姿は直視しない。「被害者の視点」を無視しておいて、核兵器の効能を正当化する支配者の論理を克服することなど出来るはずがない。  (O)

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