2024年05月31日 1823号

【ZENKO韓国参加団(下)/闘い続けることが平和への希望/群山反基地運動と光州事件に学ぶ】

 前号に続き韓国の反基地運動と連帯したZENKO(平和と民主主義をめざす全国交歓会)韓国参加団(5/3〜5/6)の報告を紹介する。

 5月4日、平沢(ピョンテク)基地から南に2時間、全羅北道(チョルラブクド)の群山(クンサン)へと向かった。「群山平和博物館」で、館長であり米軍基地拡大反対運動を行っているイム・ユンギョンさんから、群山基地の拡大とそれを阻止する闘いの歴史について、基地周辺を見学しながら説明を受けた。

 群山基地は日本の植民地時に福岡県大刀洗(たちあらい)陸軍飛行学校の分校として作られ、日本軍のパイロットや特攻隊の養成が行われた。解放後、米軍が接収し、隣市にある烏山(オサン)空軍基地と共に在韓米軍の重要な空軍基地として、その面積を拡大させながら機能し続けてきた。1977年には核爆弾が基地に配備されていたことも後になって明らかになった。驚くべきことだ。

 現在は2400人の軍人らが暮らし、レーダー、戦闘機、地対空ミサイル、弾薬庫と本格的軍事基地として機能している。韓国軍の戦闘機も駐留し、米韓が一体となって使用している。基地のフェンスからは地対空ミサイルの頭が顔を見せていた。飛行機の格納庫、弾薬庫がずらりと並び物々しい。この基地の横に韓国政府は新たな民間国際空港を建設する計画だ。軍民共用となり実質的な群山基地の拡張が狙われている。

基地拡張に抗する

 群山も、平沢同様に、軍事基地が拡大していく中で人びとの生活が奪われ、軍事基地拡大に反対する熾烈(しれつ)な闘いが行われてきた。

 大きな干潟を有する群山は豊富な貝が採れ、多くの人が住み栄えた地域だった。中国から北に向かう渡り鳥の中継所でもあり、希少な野鳥が多く生息する地域でもある。しかし、軍事基地の拡大、沿岸部の開発事業により干潟が埋め立てられ、生業(なりわい)や住む家々が奪われてしまった。草が生い茂る野原を歩くと、ところどころに家の残骸や荒れた漁業用ブイが残されており、人びとの営みがあったことが思い起こされる。ここハジェ村には元々644世帯あったが、基地拡大や「弾薬庫安全地域」指定により移住させられこのような状況になったという。

 しかし、基地拡張を許さないと粘り強い活動が続けられている。現在でも追い出しに反対し2世帯が村に残り闘いを続けている。

 村を奥に進むと、雄大な木が姿を現した。樹齢600年というペンナム(榎)だ。その奥には、同200年の松の木も凜々(りり)しく幹を伸ばしていた。住民と平和活動家はこれらを自然文化財として保護しようと、毎月木の下で文化祭を開き、自治体に働きかけ、ついに全羅北道の自然文化財に指定させた。毎日野鳥観察を行い、埋め立てられようとする干潟に希少な渡り鳥がいることを発信し続けている。

 人と自然が共に営みを壊さぬようにと、したたかに闘い続けている姿に希望を感じた。

軍事化に諦めぬ闘い

 5日、訪韓3日目は光州(クァンジュ)へ。1980年5月の軍による武力弾圧、光州事件で亡くなった方々を追悼する国立5・18墓地を訪れた。墓石には10代、20代と若者の名前が目立つ。

 事件を調べながら書店を営むイム・インジャさんより話を聞いた、軍事政権下で、民主的国家建設のため闘う市民学生がむげに弾圧された状況や、その後の民主化運動の流れについて詳しく説明を受けた。

 *   *   *

 植民地、軍政、そして軍事化拡大の中で、国家権力による暴力により市民の命が蔑ろにされ暮らしを破壊されている状況が今も継続する。しかし、そのたびに命とくらしを守ろうと、したたかな闘いが起こり、諦めることなく今も続く。

 東アジアの軍事化が日韓で進められる状況下で、こうして闘い続けることが平和への希望だ。繰り返される暴力の歴史を止めるために、日韓市民の平和を求める連帯がさらに重要な時と改めて実感した。時間はかかるかもしれない。それでも闘い続ければ道は開ける。

(ZENKO共同代表 河辺友洋)





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