2024年10月11日 1841号
【「殺さない権利」を求めて(1)――非暴力・無防備・非武装の平和学 前田 朗(朝鮮大学校講師)】
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「殺すことも殺されることもない権利」――1990年、いわゆる「湾岸戦争」戦費として日本政府は1兆円の支援を供出しました。これに反対した約1000人の市民が「私たちの税金を戦争に使うな」と主張して東京地裁に提訴しました。大阪、広島、鹿児島など各地で同様の提訴が続きました。
湾岸戦費支援に反対する市民平和訴訟は、日本国憲法前文の「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」を掲げ、憲法第9条の戦争放棄・軍隊不保持・交戦権否認を根拠に「殺すことも殺されることもない権利」を打ち出しました。原告団には清水雅彦(当時・明治大学大学院生、現・日本体育大学教授・憲法学)や筆者(当時・東京造形大学専任講師)も参加しました。
1973年9月7日の長沼ナイキミサイル基地訴訟札幌地裁判決(福島判決)の時、筆者は札幌の高校3年生でした。裁判史上唯一の自衛隊違憲判決は平和的生存権の思想を飛躍的に発展させました。平和的生存権の意義を十分理解せず、何をどうしたらよいのかわからない高校生でしたが、進路を法学部に変えました。長沼訴訟では、自衛隊基地を設置するとソ連軍から攻撃されるという主張が柱でした。殺されない権利に重点が置かれましたが、原告・弁護団は自衛隊の侵略性(米軍への加担)も意識していました。
その後の基地訴訟でも基地被害に重点が置かれました。日本の加害責任を中心論点に据えたのは1990年代の戦後補償運動でした。朝鮮人中国人強制連行、日本軍性奴隷制(「慰安婦」)問題、BC級戦犯、南京大虐殺、七三一部隊など、かつての日本軍の侵略、植民地支配、残虐行為に焦点が当たりました。筆者は1990年代、日本軍「慰安婦」問題を国連人権機関に訴える活動に加わりました。
1990年代の湾岸戦争市民平和訴訟、カンボジアPKO派遣違憲訴訟、ゴラン高原自衛隊派遣違憲訴訟は、過去の日本の戦争犯罪を想起しながら現在の自衛隊の加害性を意識して闘われました。殺さない権利と殺されない権利の総合的な把握が課題でした(前田朗『平和のための裁判』水曜社、1995年)。
21世紀にはアフガニスタン戦争、イラク戦争が続き、自衛隊の歯止めのない軍拡と海外派遣が相次ぎました。軍拡とアジア再侵略に反対する戦争不協力運動として無防備地域宣言運動が取り組まれました。2008年4月17日の自衛隊イラク派遣違憲訴訟名古屋高裁判決(青山判決)は、自衛隊海外派遣によって戦争に加担させられることに反対する市民の訴えを受け止めて平和的生存権を認めました。
軍拡一本槍の日本政治に抗して、殺すことも殺されることもない権利の意義をもう一度考えたいと思います。 |
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