2024年10月18日 1842号

【DSAアーメド・フセインさんに聞く(番外編)/ふるさとの思い出を破壊されたことが、すべての始まり】

 DSA(アメリカ民主主義的社会主義者)アーメド・フセインさんインタビューの番外編として、自身が運動に目覚めた道のりについて。(7月31日、那覇市)


Q アーメドさんの人生の方向性を決めたきっかけは?

 私たちはみな、環境の変化の中で生きていると思います。私の人生は、アラブの春(注)の前後で分かれます。

 アラブの春が起きた2011年、西アジアの故郷バーレーンで、私は急に大人にならなければなりませんでした。その時、世界に対する私の無邪気な考えは打ち砕かれ、新しい考えを見つけなければならなくなりました。これが、私が左翼となり、マルクス主義者になったきっかけです。


ふるさとの喪失が原点

 アラブの春の運動に積極的に関わるようになったのには、いくつかの要因があります。それはバーレーンの労働組合の支部長であった父の影響ではありません。なぜなら父は、私が政治的な活動をすることを望んでいなかったのです。

 当時の私には、周りの自然への深い愛情がありました。私は小さな村で育ち、海のすぐ近くに住んでいました。農場の周りで育ち、子ども時代の多くを豊かな自然の中で過ごしました。

 活動家への目覚めは、その自然の中での思い出がすべて破壊されていく様を目にしたことから始まります。

 海岸線は埋め立てられ、農場はブルドーザーで壊され、泉は枯れ果てました。私が少年時代を過ごした1990年代から2000年代初めにかけて、バーレーンの環境破壊は、最後までいきついてしまいました。

 ショッピングモールの場所がかつて農場だったことも、リゾートになっている場所が自然の砂浜だったことも、覚えています。新しい道路や複合施設のある場所すべてに何があったかを私は覚えています。

 それは、少年時代の思い出だけではなく、私にとって最も重要だと思うもの、つまり私を育てた環境(ふるさと)の大きな喪失でした。これが私の原点です。

 アラブの春は、選挙で選ばれる議会や民主的な権利をめざすものでした。私にとっての意味合いは、失われた環境を取り戻すことでした。それが、私がアラブの春の運動にとても積極的に関わるようになった大きな理由です。

移民労働者に心寄せて

 バーレーンで、もう一つ心を痛めていたのは移民労働者のことでした。

 移民労働者は非常に悪い待遇を受けており、私が「なぜ、あんなひどい扱いを受けるの?」と尋ねた時、父は「あそこまでひどい扱いを受けるのは、良くないことだ」と答えました。

 私と妹は新聞への投書で▽移民労働者はトラックの荷台に乗るのではなくバスの座席に座るべきだ▽移民労働者は猛暑の中で働くべきではない―と書きました。

 私たち兄妹(きょうだい)の考えはとても幼くて、この思いが新聞に載りさえすれば移民労働者の暮らしはよくなると考えていました。

 そして2012年頃、アメリカに移って、私も移民労働者になりました。

 バーレーンの移民労働者よりもずっと良い待遇でしたが、最低賃金で働かざるを得ず、移民労働者であること自体が問題の根本だと思い知らされました。

 アメリカに在住することができる権利は、雇用主の心一つです。雇用主が解雇すると決めれば、私のアメリカでの全人生が奪われることになります。雇用主は私の給料から労働条件に至るまで、私の生活すべてを支配しているのです。

 以前は同情の気持ちからでしかわかりませんでしたが、今では自分自身の怒りも込めてわかるようになりました。なぜなら、私たちはみな、まさに生活環境の中で生きているのですから。

 そこから、現在のDSA活動家としての私が始まったのです。

(注)アラブの春

 チュニジアでの民衆蜂起に始まり、2011年にアラブ諸国に広がった民主化と自由を求める変革運動。
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