2024年11月08日 1845号

【「殺さない権利」を求めて(2)――非暴力・無防備・非武装の平和学/前田 朗(朝鮮大学校講師)】

 「殺すことも殺されることもない権利」――殺さない権利と殺されない権利の総合的な把握が思想的な課題であり、憲法論の課題です。

 「殺さない権利」という発想は思想史にも憲法史にも見ることができません。思想的にも憲法的にも「殺さない義務」が語られます。個人には生命権があります。私の生命権を保障してほしいのなら、他人の生命権を尊重しなければなりません。他人を殺さない義務を守るから私の生命権を主張できます。他人を殺せば殺人罪(刑法199条)、不法行為として損害賠償請求対象(民法709条)になります。

 殺さない義務に倫理的に直面してきたのは、戦時における軍人や死刑執行官です。「平時に人を殺せば殺人だが、戦時に殺せば英雄」という逆説を乗り越える思想が確立していません。国連事務総局報告書(2024年)によると170か国が死刑廃止国となっています。日本は少数派の20数か国の一つです。日本でも1960年代や90年代に死刑執行官から苦悩と疑問の表明がありましたが、抑圧されてしまいました。殺すことが「公務」とされている国です。

 爛熟した社会では、あらためて「なぜ人を殺してはいけないのか」という議論が行われ、ネット上では無責任な主張が飛び交います。他者の否定に行きつくか、ただの無規律・無軌道に陥るしかありません。

 もう一つ倒錯した議論が「死にたいが自殺できないので、他人を殺して死刑になりたい」というものです。アメリカでも日本でも実例が報道されましたが、いずれもその場しのぎの思いつきの弁明にすぎなかったようです。

 「殺されることのない権利」は通常は生命権ですから、死刑廃止や生存権の保障とつながります。憲法13条では「個人の尊重」と並んで規定されます。現実政治においては、庶民の生活と生存を無視する悪政に対して「生きさせろ」(雨宮処凛)と主張して闘う思想に発展しました。

 それでは「殺されない義務」は想定できるでしょうか。従来の思想や憲法論には見られないでしょうが、「生き延びるための思想」(上野千鶴子)は、悪政に無意味に殺されないためにどうするべきかという問いを召喚します。

 こうして見ると「殺すことも殺されることもない権利」には実に多様な局面があり、いずれも深刻な問いを孕むことがわかります。

 本連載では、非暴力・無防備・非武装の平和学という文脈で「殺すことも殺されることもない権利」を考えます。死刑制度を維持し死刑執行を続ける日本政治。庶民の生存と生活を軽視する日本政治。アジア侵略と植民地支配への反省を拒み続ける日本政治。アメリカの軍事戦略に追随・便乗する日本政治。殺せと命じ、殺すために税金を湯水のごとく使う現実政治に対する異議申し立ての思想を紡ぎ直すために。
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