2024年11月15日 1846号
【コラム 原発のない地球へ/いま時代を変える(9)/JCO臨界事故25年/ 地獄を見た現場労働者、そして東海村】
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1999年9月30日、茨城県東海村のジェー・シー・オー(JCO)東海事業所で起きた臨界事故から25年が経った。公式に残る日本初の原子力死亡事故だ。
核燃料であるウランは一定以上の量が集まると核分裂が始まる。核分裂による中性子の放出が一定時間連続すると臨界と呼ばれる。発電中の原子炉の中は臨界状態になっているが、人が作業をしている無防備の現場でそれと同じ状態が起きるという、常識では考えられない事故だった。
ウラン化合物を硝酸で溶かした「硝酸ウラニル液」を沈殿槽に入れる作業の過程で臨界は起きた。JCOは、正規のマニュアルではない国の許可すらとっていない「手順」を作業員に指示しており、硝酸ウラニル液をバケツですくって投入させていたことが発覚する。「バケツでウラン」の流行語とともに、JCOの施設運営のあまりの杜撰(ずさん)さに日本社会が震撼した。
大量被ばくをした労働者が「青い光」を見たとの情報も飛び交った。臨界状態になり、電子が光速を超えるときに発生する青い光は、発見者の名前からチェレンコフ光と呼ばれる。「肉眼で見た者は生きては還れない」とされる悪魔の光だが、このとき発生したのがチェレンコフ光だったかは諸説あり確定していない。
ほぼ100%が死亡するとされる7シーベルトをはるかに超える18シーベルトもの中性子線を浴びた、大内久さん(当時35歳)。体内の染色体はズタズタに破壊され、壊れた多くの細胞は二度と修復できず、免疫力もゼロになった。3か月もの苦痛と絶望を強いられ、事故から83日目、帰らぬ人となる。生きていれば今年還暦。遺族の無念は察するに余りある。
午前10時35分頃に始まった臨界状態は、翌朝6時過ぎに解消するまで20時間近くも続いた。
事態を収拾できないJCOに代わって収束に動いたのは村内にある日本原子力研究所。収束作業の陣頭指揮を執った人物が、田中俊一副所長(当時)だった。誰あろう、3・11後に発足した原子力規制委員会の初代委員長その人である。臨界状態を収束できないまま夜を迎え、「真っ暗闇の中、放射線レベルのかなり高い所に行くことについて(研究所メンバーら)みんなに葛藤があった」。田中氏はこう証言する。
結果的には、高線量の被ばくを前提とした「決死隊」と呼ばれた人びとによる10回にもわたる人海作業でようやく臨界状態は休止したのだ。
その2年前の1997年に初当選したばかりの村上達也村長は、事故判明後、当時の担当官庁・科学技術庁に電話したが大混乱でまったくつながらなかった。やむを得ず、JCOから半径350b圏内の住民の避難を決める。村独自の判断だった。
「日本には技術はあっても科学はない」。地獄を見た村上元村長は言う。福島を知ったはずの日本で、今も問われている課題が当時と変わらないように見えるのは私だけだろうか。 (水樹平和)
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