2025年10月10日 1890号
【「殺さない権利」を求めて(13)――非暴力・無防備・非武装の平和学/前田 朗(朝鮮大学校講師)】
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これまで12回にわたって「殺さない権利」について考えてきました。殺すことも殺されることもない権利、殺させない権利、生命権、そして殺させられない権利と関連するテーマです。そして、非暴力・無防備・非武装と繋げて考える必要があります。その全体像が見えないままに書き始めたのですが、「権利」と呼ぶからには、他の権利との関係も意識しておく必要があります。
それでは他の権利とは何でしょうか。日本では「他の権利」がどのように理解されているでしょうか。実はこの問い自体が大変な難問であり、時間をかけて論じる必要があるのです。
生命権、精神的自由権(思想の自由、表現の自由等)、経済的自由権(財産権、営業の自由等)、人身の自由(適正手続き、推定無罪、黙秘権等)、教育権、生存権、社会保障権といった「権利のカタログ」は良く知られています。中学高校の社会科教科書にも日本国憲法上の権利の一覧が掲載されています。図式的に整理して、わかりやすく解説している教科書もあります。
1946年の日本国憲法には「第3章 国民の権利及び義務」という章が設けられています。第10条から第40条までの権利規定があります。教育の義務(第26条2項)、勤労の義務(第27条1項)、納税の義務(第30条)という義務規定を除くと、すべて権利規定です。1946年当時の憲法としては優れた人権保障の憲法でした。
しかし、これでは不十分なのです。理由は2つあります。
第1に、人権体系論が欠落しています。憲法教科書を見ると、それぞれさまざまな人権の体系的整理の試みがなされています。憲法学は人権体系論を意識して発展してきました。でも、論者がそれぞれの人権体系論を展開しているだけで、共通理解は形成されていません。ばらばら、というのが実状です。結果としてばらばらなのではありません。方法論がないから、ばらばらになるしかないのです。
第2に、日本国憲法に書かれていない人権の位置づけができません。例えば、人として認められる権利(世界人権宣言第6条)は日本の人権論から完全に無視されてきました。ナチスドイツのユダヤ人迫害や日本軍国主義の残虐行為を反省して人として認められる権利がつくられたのに、日本憲法学はこれを無視してきました。基本ができていませんから、まともな人権論になるはずがありません。
それどころか、日本国憲法に書いてある権利を書いてないことにしてしまうのが憲法学です。例えば、国際人権法では将来の世代の人権がホットなテーマになっています。日本では見向きもされません。ところが、日本国憲法第11条と第97条に将来の国民の権利が明記されています。憲法に書いてあるのに、憲法教科書にはほとんど出てきません。憲法学者の個人的判断によって重要でないとして消されてしまうのです。
こうした現状では、殺さない権利の体系的位置を論じることができません。殺さない権利が日本国憲法に関係があるのか否かを論じることもできません。 |
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