2026年03月13日 1911号

【哲学世間話/田端信広/今問われる批判の活性化】

 「批判」一般を忌み嫌う風潮はある深刻な兆候を示している。―先の衆院選で、野党は高市政権批判ばかりを繰り返したのに対し、高市首相は「決して他党を批判しない姿勢」を貫いた。それが「聴衆の心を引き」、野党惨敗、高市圧勝の大きな要因となった―こうしたまことしやかな評価、評判が、テレビ番組のコメンテーターや視聴者の声として、大量に流され続けた。

 巨大な権力をもつ政権与党を野党が批判するのは至極当然のことであり、高市の他党「批判封印」の狙いは選挙の「争点隠し」にあったのだが、今そのことは一旦、脇に置いておこう。

 それより見過ごせないのは、「批判する」こと一般をなにか悪いこと、不当なことのように見なし、「批判する」ことを悪しざまに非難する風潮の高まりである。

 そもそも「批判する」という言葉の原義(krinein)は、相手の考えや立場と自分のそれを「分ける」こと、分けたうえで「判断する」ことにある。そこには、相手を貶(おとし)めたり、誹謗(ひぼう)中傷するという意味はまったく含まれていない。「分ける」ということは、当然、相手に対して自分の考えや立場を直接、間接に表明することを含む。そのことによって、はじめて自他の相違や対立点が明確になる。

 この「批判する」こと=「分ける」こと、「相違を明確にする」ことが衰退していけば、社会はどうなるか。この点を喝破(かっぱ)したのが、ドイツ・ファシズム批判の名著『啓蒙の弁証法』(M・ホルクハイマー、T・W・アドルノ共著)だ。

 同著はこう述べる。ファシズムは、人間の理性が現実社会に対する「批判」能力を失い(「理性の腐食」)、現存する社会の体制や制度を無批判的に是認、追認するようになった思考態度の実践的帰結である。つまり「だれもものを言わなくなる」風潮の蔓延(まんえん)がファシズムを醸成したのである。

 「批判」一般をなにか悪いことのように忌避する風潮の高まりは、社会の不合理な現実や権力の不当な行使に対して「声を上げる」ことさえ封じ込めることにつながっていく。それは、社会的現実の無批判的黙認を助長し、ときにそれを強要する「露払い」役になりかねない。

 時代のこのような風潮の高まりに抗して、私たちは今こそ「批判」を活性化しなければならない。私たちの立場(民主主義的社会主義)を明快に掲げて。

(筆者は元大学教員)
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